自由な考え方ができないのは、思い込みのせいかも
2016/07/13
自分の考え方が思い込みでできていたとしたら
どうも。れすポです。
今月はなんと、初めてのフジロックに参戦してまいります。
というのも、私が高校生の時多大に影響を受け、洋楽に興味を持つようになったきっかけでもある、あのレッチリが来日するからです。
生で見るのははじめてでありますので、非常に興奮しております。楽しみで仕方がない。
有給をとって堂々と行って参ります。有給とれる会社で本当に良かった。会社は辞めたいけども、そこには感謝です。これを逃したら一生見れないかもしれませんからね。
さて、今回は自分が信じている「自分」というものを疑ってみたいと思います。
今の自分をつくっている考え方は、本当に自分の考え方なのか
ちょっとよく分からない見出しになってしまいました。どう書いていいか正直分からないです。
何が言いたいのかというと、
「自分の持っている考え方は、本当に自分で作り上げてきたものなんだろうか?」
ということです。
これでも分かりにくいですが、つまり自分は本当に自分なんだろうかということです。
今まで私はちゃんと学校に行って、ちゃんと就職してサラリーマンになっていくことが正しいことだと信じていました。
ですがどうでしょう。今ではそんな考え方にはとても同意できなくなっています。会社勤めで終わる人生は嫌だ、好きなことに素直になって自由に生きていきたい。そう強く思っています。
過去の自分の考え方に強く反発しているんです。過去の自分に敵対しているといってもいい。今までの私は真面目に生きることを良しとしていたのですから。
なぜこうも考え方が変わったのか。考えてみました。そして気づいたんです。
「考え方が変わったんじゃない、誰かの考え方を自分のものだと思い込んでいたんだ」ということに。
特に強い目標や意思を持たずに生きてきてしまった私は、知らぬ間に誰かの考える「正しいこと」が自分にとっても大切なことなんだと勘違いしていたんです。
そしてここまできてしまった。就職してからやっとそんな重大なことに気づきました。
今までの私の人生は、「他人の人生」だったのです。
当たり前だと思っていることを、一度疑ってみる
自分の考え方が本当に自分のものかなんて、考える人はほとんどいません。
なぜなら、自分は自分だと信じているから。自分の判断、自分の好きなもの、自分が正しいと思っていることは当然、自分が選んできたもの。それが当たり前だと思っています。
ですが、私はあえて疑問を投げかけてみたいと思います。
あなたの考えは、すべて自分のものだと言えますか。他人の意見が入る余地はまったくない、そう言い切れますか?と。
私自身の事を考えてみると、少なからず人の目を気にしていた自分がいたと感じます。そして、人からどう思われるかを重視して決めてしまったこともたくさんあったんじゃないかと思うんです。
一番大きかったのは、やっぱり仕事の選び方についてです。
結論からいうと、私は今の仕事に興味がありません。じゃあなぜ入社したのかと聞かれたら、「安定している会社で、安定した生活を手に入れたかったから」そして、「いい会社に入ることこそが、正しいこと」だと思っていたからです。
今から考えれば、子供の頃はそんなこと、これっぽっちも考えていなかったなと思います。大人になっていく中で、いつの間にか「正しいこと」の基準を持つようになってしまっていました。
でもこの基準は、自分で作ったものではありません。誰かが考えたことなんです。他人の考えが自分の一部を作っていたんですね。
そう考えると、なんだか他人の考えが自分を侵食しているようで気持ち悪いなと思うんです。同時に、自分の意志を持ってこなかった自分が腹立たしく思えてきました。今までなにやってたんだと。
これからは自分の考えかどうか、ちゃんと確かめていきます
もうこれからは他人の人生を生きるのはゴメンなので、本物の自分の考えを持っていきたいと思います。
混じりけのない、「原材料100%じぶん」の考え方です。
当たり前だと考えていたことも、一度立ち止まって「本当に自分はそう思っているのか?」と自分自身に問いかけていきたいと思います。
本当にたいせつなのは、誰かの意見や価値観じゃない。自分がどう考えるかだと思うからです。
それさえしっかり持っていれば、自分を信じることができます。自分を信じることができれば、誰にどう言われようと関係がなくなります。
自由になるためには、考え方も自由な方向へシフトしていかねばなりませんからね。20代の間に気付くことができて、まだよかったと思います。ひとえに、本を読むようになったおかげです。読書の力はすごいです。
これからはちゃんと、「自分の人生」を生きていきたいと思います。