孤独な時間はひたすら読書という幸せ
孤独な時間は読書に最適で最高に幸せな時間
分かる人には一発で分かる。
休みの日には、朝からお気に入りのカフェでカフェオレを飲みながら本を読むのが至福のひとときだ。
暇があれば本を読む。休日はほとんどの時間を読書と映画が占めている。最高に幸せな孤独の時間だ。
孤独で寂しくないか?とんでもない。
逆である。誰かがいると「邪魔」なのだ。一人静かに集中して本の世界に浸れるからこそ読書の価値がある。誰かと仲良く読書なんてとんでもない。
本を読まない人生というのは辛い
本を読むことが習慣にない人は、かわいそうだな、と思う。
なぜなら、本を読むことで生きていくのが楽になるからだ。本を読まないでいると辛い(と感じる)ことが多くなる。
本を読むというのは、文字をただ追っているというのではない。文字を通して著者の人生を体験する行為だ。寿命は100年しかなくとも、本を通して何十人、何百人という人間の人生を追体験することができる。
だから、普通なら体験しなかったような辛い災難や苦難をも知ることができる。人生の予習ができる。もしこれから辛いことがあったとしても、あの本で読んだ著者の苦しみに比べればどうということはないと考えることができるようになる。
もしくは、到底太刀打ちできないような壁に阻まれた時、あの偉人ならこの苦境に置かれてどう考えるだろうかと、先人の頭を借りたつもりで思考することができる。
本を読まなければ?
自分が生きてきたわずか数十年の経験をもとに、乗り越えるしかない。これは辛い。
本を読まない人は、本を読むことで何千年、何万年もの出来事を疑似体験してきた人に敵うわけがない。よく考えてみれば当たり前のことだ。
読書量は年収に比例すると言われるがそんなのは当たり前のことであり、そんなことより人生の生きやすさが圧倒的に変わってくることの方が問題ではないかと思う。
読書は孤独にするもの。孤独と相性バツグン
読書は孤独にするものだ。
誰かと集まって本を読みましょうとはならないだろう。一人の時間に落ち着いて、集中するからこそ読書という。
読書がなければ幸せにはなり得ない。そして、読書は孤独な時間がなければできない。孤独でなければ読書はできないのだ。
そんな素晴らしい孤独の時間を、なぜ「寂しい」などと言ってしまうのか。その精神こそが「寂しい」と言わざるを得ない。
本を読んでいる人は、一人の時間が寂しいなどとは思わないはずだ。
なぜなら、本を読んでいる間は誰しも一人の時間を過ごしているから。友達や恋人と語り合いながら本を読むことはできない。
そして本の素晴らしさを知っている人は、孤独とは本を読む絶好の機会であり、間違ってもそれが「寂しい」などというマイナスのイメージとは結びつかない。
孤独は本好きにとって、紛れもなく「最高の時間」なのである。
本を読む人か読まない人かは会話ですぐに分かる
本を読む人かそうでないか。
少し会話をすればすぐに分かる。「あ、読まない人なんだろうな」と分かる。
反対に、読まない人には相手が本を読むのかどうかは分からない。本を読む人同士がわかり合うという感じだ。
「ふーん、それで?」
と呑気に思っていてはいけない。これは重大なことだ。
本を読む人というのは概して成功者が多い。つまり成功者と会話した時点であなたは「読む人」か「読まない人」かがバレてしまっているということだ。
正直に言って、本好きは本を読まない人とはあまりお近づきになりたいとは思わない可能性が高い。端的にいうと本を読まないと成功者に嫌われるということだ。
嫌われるというのでは表現が単純すぎる。もう少しニュアンスを込めていうと、
「あ、あなたはこちら側の方ではないのですね」
と判断されてしまうということだ。
成功したお金持ちはそんなことをわざわざ言うわけはないが、内心では間違いなくそう判断されてしまう。そうなればあなたは成功者にとっては「空気」と同然だ。
この世に存在しないも同じと言うことだ。
最高の孤独を存分に謳歌しよう
というわけで孤独に読書を楽しんでいる人はそのまま最高に贅沢な時間を楽しもう。
成功したい人も、よりよい人生を生きたい人にも本は頼り甲斐のある友となってくれる。
孤独な時間は、自分とがっぷり四つで向き合う時間だ。読書でも、映画でも、音楽でも、絵でも、なんでもいい。自分の心の奥深くと対話しよう。
孤独が人間に奥行きを与えてくれ、人を思いやる心を育ててくれる。
「寂しい」なんて言っている暇などないのだ。